第134回 ボランティア

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もうすっかり夏の定番として定着したチャリティー番組。皆さんは寄付しましたか?

毎年のようにささやかれる「出演者のギャラ」問題、ご存知でしょうか。こういうチャリティー番組は非営利であるはずなのにテレビ局側は広告収入を得ており、しかも出演者にはギャラが発生するらしい、というのです(本当のところどうなのかは知りません)。

出演者に出すギャラを慈善事業に回したほうがよほどイメージはいいし、より多くの寄付を集めることにもつながるのにそうしていない、といった批判です。

西洋の同じようなチャリティー番組では、出演者はギャラなんてとらないし、テレビ局側もギャラを出したりしないそうです。もしそんなことがあったら、それはスキャンダルなのだそうです。

こういう話を聞いて、日本は西洋化したとは言え、やはり根底は儒教文化だな~と思いました。

こういうチャリティー番組は、キリスト教の「博愛」という精神が根底にあると思います。

博愛とは何ぞや?

博愛とは、全ての人を等しく愛すること、だそうです。しかし、そんなことできるのでしょうか?

僕たち日本人は「博愛なんて無理。知らない人なんか急に愛せないし、嫌いな人はもっと愛せない」と思ってしまうじゃないですか。でも、キリスト教では博愛を教えるわけです。

多くの日本人は、そういう「博愛」的行為を「すごい」とは思いつつもどこかでなんとなく「胡散臭い」と感じているように思います。キリスト教が日本であまり定着しないのは、そういうことなのかもしれません。

日本人は「家族愛」なら信じられますよね?「友人同士の愛」や「師弟愛」も信じられます。でも知らない人までは愛せない(というか、知らない人を愛するという感覚が、もうひとつ理解できない)のが日本人です。「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と言われたら、頭では理解できても皮膚感覚的には分からない。これは、多分中国人もそうです。というのは、こういう感覚はキリスト教の文化であって儒教の感覚ではないからです。

儒教では、親子がどうあるべきか、君臣がどうあるべきか、兄弟がどうあるべきか、夫婦がどうあるべきか、ということをよく説いていますよね。でも、「博愛」というようなことは、あまり触れていません。だから、儒教の国に生まれ育つと、「博愛」という感覚はなかなか持ち得ないのです。

そのことがよく分かるな~と思う言葉があります。

义务

yì wù

この言葉は、日本語でいう「義務(ギム)」の意味もありますが、よく「ボランティア」という言葉の訳語としても使われます。例えばボランティア活動のことを

义务活动

yì wù huó dòng

と言ったりします。

僕の感覚では「ボランティア活動」というと自発的に行う行為です。例えば東日本大震災の時は日本の各地から多くの人が集まって、被災者の生活支援活動に当たっていましたが、彼らは自分から「やりたい!」と思ったわけであって、誰かから言われたり、あるいは何か見えないプレッシャーがかかったわけではないと思います。それこそが本当の「ボランティア」だと、少なくとも僕はそのように思っているわけです。

ところが中国語でボランティアは「义务yì wù」と訳されることがある。はじめてそれを知った時はものすごい違和感を覚えました。

つまり、「義務」には「道義上の責任」というような意味がありますよね。困っている人を助けるのは、儒教的には「義務」なんでしょう。

キリスト教文化圏の「博愛」的なニュアンスとしての「ボランティア」とは、発想が違うのでしょうねぇ。

我々儒教の国の人は「博愛」という感覚が本当の意味では分からないので、チャリティー番組の出演者にギャラが出ている、なんていうことが話題になると、つい「ああ、ありそうな話だ」と思ってしまうのでしょう。本当にギャラが出ているのかどうかは知りませんけどね(笑)。

(ちなみに、ボランティアの訳語としては他に「志愿zhì yuàn」というものもあります。こちらは「博愛」という思想との間にギャップは感じませんね。)

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